出雲焼きの解説です。
出雲国(現島根県)で焼かれている陶磁器の総称になります。
楽山焼・布志名焼の他、多数の焼き物があります。
【意東焼(いとうやき)】
出雲国意宇郡意東村(島根県八束郡東出雲町意東)にあった磁器の窯。
文化(1804-1818)以前の開設と推測されています。
中心になる職人は九州から招きいれていた。
天保13(1842)事業中止、次いで弘化元年(1844)には取潰しになる。
銘には「長歳山」「雲陽長歳山」「意東製」、「月漢画」「月光画」などがある。
中には中国製を模して「大明年製」としたものある。
この窯が閉鎖のあとを受けて金成山(かなりやま)焼が起こり、また別に鳩峯焼と称するものもある。
【乙見焼(おとみやき)】
出雲国簸川郡杵築(島根県簸川郡大社町杵築)の近く乙見の焼き物。堀川焼とも呼ばれる。
安政(1854-1860)頃出雲藩の国学者中村守手(一説には父守臣とも)が紀伊国(現和歌山県)から陶工を連れ帰り開いたとされます。
日常の雑器が主でからわら玩具を製出。
銘には平仮名の「きづき」、あるいは「八雲立つ」の印が伝世。
【布志名焼(ふじなやき)】
島根県八束郡玉湯町布志名の焼き物。
起源には諸説あるそうで、1658年(万治元)加田半六創始説と1764年(明和元)船木与治兵衛の創始説があり、後者が妥当と考えられています。
当時の製造者に土屋善四郎がおり、倉崎権兵衛から相伝したとされる。
寛政(1789-1801)以来、続々と開業するものが出てくる。
1790年(寛政2)沢嘉介秀勝。
1793年(寛政5)土屋善四郎が新たに開窯。
1800年(寛政12)沢藤右衛門義直。
1802年(享和2)永原与蔵。
文化・文久間(1804-1864)に船木九蔵・福島幸助・船木平兵衛・福島又兵衛らが開業。
1877年(明治10)工商会社と特約を結び生産拡大。
1880年(明治13)業者が一致し島根陶器製造会社(若山会社とも)を組織する。
1883年(明治16)島根陶器製造会社、製品の粗雑さが原因で解散。のちに船木健右衛門らにより若山製陶舎成立。
1887(明治20)玉造村大谷(玉湯町)産の石を配し好原料を得る。次いで釉裏彩画法を行い海外輸出開始。
製品は初め非常に粗悪なものが多く、文政(1818-1830)頃改良され、天保(1830-1844)さらに進歩し黄釉、白釉、青釉、錦模様などのものが現れる。
明治期に一度衰退するも時代を経て輸出できるまでになる。
布志名で陶器製造業者が居住し陶業を営む場所は大字若山と呼ばれ一名若山焼と呼ばれる。
【母里焼(もりやき)】
出雲国能義郡母里(島根県能義郡伯太町母里)の焼き物。
1819年(文政2)母里藩主の松平直興が出雲国意宇郡東村(島根県八束郡東出雲町意東)の陶工を招き西母里上卯月大谷の地に窯を築いたのが起こりとされています。
その後東母里原代天馬に移窯、事業の衰退と共に1847(弘化4)上田武蔵が譲り受け神天馬焼となる。この間同地周辺には豊岡焼、仲天馬焼、下天馬焼(豊山焼)などの窯が数件起こる。
【楽山焼(らくざんやき)】
出雲国八束西川津村楽山(島根県松江市西川津楽山)の陶器。別称に御山焼・権兵衛焼がある。
慶安(1648-1652)初代松江藩主松平直政の頃の創始と考えられています。
しかし「楽山焼」の称があるものは第二代松平綱隆が延宝5(1677)陶技指導のため長門国(現山口県)毛利候より萩焼の陶工倉崎権兵衛を所望し従事させたのが起こりとされる。
萩の粘土と釉薬をもたらし萩焼に類似した抹茶碗など茶器を作陶。伊羅保写しの名手でもあった。「権兵衛焼」と称され珍賞される。
元祖倉崎権兵衛重由
二代加田半六(権兵衛の弟子)
三代半六
四代半六。この四代が暇を出されたため御焼物師が断絶。一時土屋善四郎芳方(布志名焼土屋家の祖)が楽山窯師に。
五代長岡住右衛門貞政(元布志名窯の陶工)。楽山焼復興のため松平不昧に抜擢され楽山焼五代目に。
六代貞正(空斎) ー 七代空入 ー 八代庄之助 ー 九代空味 ー 十代空処 ー 十一代空権。
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参考文献『原色陶器大辞典』、『日本陶器全集(大正)』
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