磯御庭焼の解説です。
磯御庭焼(いそのおにわやき)は薩摩焼の殿窯の一つです。
【四度の変遷】
●斉彬御庭焼ー集成館、錦谷窯場
島津斉彬(しまづなりあきら)は富国策により1853年(嘉永6)現在の鹿児島市吉野町の磯別邸内に集成館を創設。そこであらゆる事業の試験改良を図る。この時陶器の釉法などの改善と磁器の創製を計画する。1855年(安政2)苗代川の錦手方主取朴正官を招き指揮に当たらせる。同時に自らの発明も加え各種の陶磁器を製造させる。
さらに猫神祠の付近に錦谷窯場を設け自らで土を捏ね楽しみとしました。
臼砲の弾丸に似せて茶碗をつくり狂歌を箱書きしたものが有名。
●仙巌焼(せんがんやき)ー忠義、御庭焼研究所
斉彬が没し忠義の代になると薩摩焼の粗製の一途をたどります。それを嘆き1895年(明治28)製陶所磯邸内に建設し陶工・画工を招き古薩摩以来の特色を研究し、毎日工場に通い調土施釉法などの試験をし自ら指揮経営をしました。
またこの場所を一般に御庭焼研究所と呼びその作品を仙巌焼といいました。磯邸内の仙巌園に因んだもの。
1897年(明治30)に忠義没。1899年(明治32)9月大暴風により窯場が破壊され廃業。
●新御庭焼ー忠重
1907年(明治40)に島津忠重が再び集成館内に御庭焼研究所を再建し陶工・画工を招き従業させました。
1915年(大正4)に元紡績所跡の北隅に窯を移します。その後、釉薬・樽灰などを精選し日を追うごとに良品を製出していきました。
1927年(昭和2)5月、事業が閉鎖され薩摩焼と島津家のつながりは断絶することになります。
●磯焼ー市来窯
新御庭焼期の陶工であった市来伊太郎は子の栄吉と共に島津家の許可を得て1927年(昭和2)7月に集成館南側で開窯。伊太郎の死去後、子の栄吉が事業に製出したそうです。
【磯の御庭焼 銘印】
「桜マークに磯庭製(囲み)磯庭」、「薩摩磯製 イ(まる囲み)」
「サツマ磯 磯製」、「磯 磯製 ロ(まる囲み)」

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参考文献『原色陶器大辞典』
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