粟田焼の解説です。
京都粟田(現東山区)付近の陶器の総称になります。

~著名な粟田焼~
【粟田口焼】
開窯は慶長年間(1596-1615)を降らぬものとみられています。主に茶入・茶碗などの茶器を焼き、唐物や呉器手・伊羅保手などの写しに特色をだしていたようです。
向付などの器には錆絵や錆絵と染付を併用した淡雅なものが多いです。
狭義の粟田焼は元禄(1688-1704)頃まで続いたとみています。
「粟田口」の印がある。

【岩倉山(いわくらさん)】
初代は明らかではないそうです。岩倉山こと錺屋吉兵衛は1756(宝暦6)三文字屋九右衛門の子孫が衰退したために、錦光山吉兵衛と共に代わって将軍家の御茶碗師となり粟田領三条通(東山区)に住む。
子孫のうち文政・天保(1818-1844)頃の吉兵衛は名手と伝えられる。
なお、野々村仁清の窯跡の一つとして左京区岩倉の地も数えられるが、岩倉山の祖先はここから出たのではないかと考えられています。

【錦光山(きんこうざん)】
粟田陶工の旧家の一つ。
慶長年間(1596-1615)の頃よりすでに製陶に従っていたとみられます。
正保の頃(1644-1648)初代小林徳右衛門が粟田口に築窯し「鍵屋」と号します。
二代もまた同じく徳右衛門といいます。
元禄年間(1688-1704)三代徳右衛門が粟田青蓮院の宮の御用を仰せつけられ「錦光山」の名を賜ります。
宝暦五(1755)年、岩倉山と共に将軍家の御茶碗師に命じられる。
四代・五代ともに喜兵衛と称し御用陶工でした。オランダ写しや仁清風のものを作る。
六代宗兵衛の頃より性を「錦光山」と改めます。青木木米に師事して磁器の製法を伝授し維新の頃、製品改良し貿易を始めます。これは京都磁器の海外輸出の最初と考えられています。
七代も貿易にますます励み、欧米なども視察し製品改革を図り大いに貢献します。緑綬褒賞受賞。1928(昭和3)61歳没。

【帯山(たいざん)】
初代高橋藤九郎。延宝年中(1673-1681)京都粟田口に住み、製陶開始。「帯山」と称す。
二代~五代与兵衛。
六代与右衛門、天保年間(1830-1844)に彩画陶器を製陶。粟田彩画のはじめとされる。
七代~九代与兵衛。1894(明治27)年頃に廃業したといわれています。

【丹山(たんざん)】
1851(嘉永4)年に粟田で磁器業を開きます。1853(嘉永6)には青蓮院の宮が陶器物産会所を設置すると陶磁を兼製します。1865(元治2)二代目芳太郎、1866(慶応2)その弟陸郎が継ぐ。

【宝山(ほうざん)】
陶家雲林院文造(文蔵)。祖先は滋賀県の甲賀郡信楽郷神山村(現信楽町神山)の人。天文年間(1532-1555)に京都へ出て洛北加茂あたりあるいは御菩薩池(みぞろがいけ)などに住み神社供物の土器類を焼いたとされる。
四代の頃に清水坂に移り製造したとされる。
九代安兵衛は粟田天王社の神職を兼ね、たまたま大和国(奈良県)の生駒山宝山寺の僧某より「宝山」の号を贈られた。以後この印を捺すことになります。
十六代文造は五条坂に移り雅器・塑像を作り、安政年間(1854-1860)に粟田青蓮院の宮より「泰平」の号を賜る。
別伝があり、初代は信楽黄ノ瀬の雲林院文蔵で、1660(万治3)粟田口に開窯、1673(延宝元)没とあるそうです。また宝山号についても1752(宝暦2)年に宝山寺の比丘尼に勧められて窯名にしてとも。代々「宝山」の印を使用し明治年間では11代目の計算に当たるとのこと。

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参考文献『原色陶器大辞典』、『日本陶器全集(大正)』
写真『日本陶器全集(大正)』
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