有田焼の解説です。
有田焼は今でも良く耳にする焼き物の名でとても馴染みの深いものだと思います。

有田焼は、肥前国(現佐賀県)有田で焼かれた器です。
日本は中世まで磁器がなかったのですが、江戸時代の初期(1610年代)に朝鮮の陶工(秀吉の朝鮮出兵の際に佐賀藩鍋島直茂が凱陣の際連れ帰り帰化した人々)の技術により日本初の磁器が生まれました。土器にはじまり、釉薬を施した高火度の陶器に進歩し、この白くて硬い磁器へと進歩したのです。
そして生産は長崎県の波佐見窯など周辺に拡大していきます。こうして広域で磁器が作られ伊万里港(佐賀県)から出荷され消費地の江戸、京、大阪へと送られます。この時の出荷港の伊万里の名を取り伊万里(今利、今里など様々な当て字を見受ける)焼と呼ばれ広まっていきました。
草創期
当時の需要としてはまだまだ中国の景徳鎮窯(けいとくちんよう)の染付が重宝されていた。
このために青い絵模様を施した染付を作り始めます。
朝鮮の陶工たちは母国では白磁が主流であったため染付文様の考案には当時の中国の絵手本などから題材を参考にしていたと思われる。
しかし、成形技術は優れており、中国のものとは異にしていた。何よりもの特長である窯詰めの際に砂目積みの方法(焼く際に製品同士の間に砂状の小さな塊を3個~バランス良く置き積み重ねる方法)が草創期の作には見られる。
朝鮮の技術と中国風の意匠、日本的文様が組み合わさった磁器である。また火の調整が不十分な時代ともあり焼成むらなどが生じやすかったとされる。
寛永期 1624-1644】
民間ベースで始まった有田焼ですが、生産が盛んになるにつれ燃料などの消費量も増大していき、薪の原料となる木の伐採で山が荒れだします。これを理由に鍋島藩は陶工の追放や伊万里地方・有田地方の窯場も取潰しになります。そしてわずか13の有田の窯場に統合することにしました。これを機に陶器による雑器の生産が消え、磁器生産体制が整い、良質な窯場が出来上がったのでした。
正保元年に中国が明清王朝交替の内乱のため中国磁器の輸入が激減します。このチャンスを生かし生産量の増大工夫をし国内市場を席巻することになります。
鍋島藩の磁器が重要な財源となるとみて政策をとった先見の目が大当たりします。
この頃までに作られたものを現在「初期伊万里」と呼びます。
正保期 1644-1648初期色絵
この頃になると技術革新も進んでいき、本焼きした素地に赤、緑、黄などの色絵の具で模様を描き低火度で焼きつける色絵技法が中国より伝わり1647頃には成功したといわれています。
初期の色絵には二つの装飾方法がありました。
①赤の輪郭線を使い明るい赤・緑・黄を使い「南京手(なんきんで)」「祥瑞手(しょんずいで)」と呼ばれるものです。
②黒の輪郭線を使い赤・緑・黄・青・紫など濃い色調の絵の具を5色ほど使う「五彩手(ごさいで)」と呼ばれるものです。
当初、初期伊万里の時代でありながら、景徳鎮磁器に近い素地を開発しシャープな作りの大皿が焼かれた。
そうした色絵大皿が50年代に入ると姿を消し、より厚手で粗放な白磁素地を用いたものになり、その汚さを隠すように赤以外の濃厚な色絵の具で器面を塗り埋める装飾が主となっていきます。
「青手(あおで)」
また1647頃からは東南アジア諸国も時期を肥前に求めだし、中国船、オランダ船と肥前磁器の輸出も始まりました。
寛文期 1661-1673】
1659年ころからオランダ東インド会社によるヨーロッパ輸出が本格化すると、国内外の需要に応じた様々な時期を作り始めます。
輸出時代を迎え色絵の業者を集めた赤絵町の設置や窯場の移動など再編がおこなわれます。
初期の色絵から輸出向けに明るい色調の色絵と変化します。
1650後半には金銀の焼付技法も始まります。色絵の加飾方法に幅ができていきます。
「仁清手」「藍九谷様式」もこの頃。
延宝期 1673-1681】
1670年代に入るとより完璧な時期を求めるようになり、柿右衛門窯で典型的な柿右衛門様式の色絵磁器が完成する。濁手(にごしで:乳白色)のように青みを取り除いた白磁素地を用い繊細な模様が施されたものが作成される。
また染付もより線描きが緻密な表現になり、ぼかしやダミも巧みになっていきます。「藍柿右衛門様式」と呼ばれる技法の誕生。
そして同じ図柄の組皿などキッチリ作るために技術も進み、土型を使った「型打ち成形法」や「型紙摺り」も盛んになる。
元禄期 1688-1704】 金襴手
色絵は1690年代を境に柿右衛門様式から金襴手様式へと変化していきます。
金と赤を多用し、また緑に新たな黄緑色が加わりました。素地も染付を施し釉薬に青みが戻ります。模様表現は硬くなり、図案化が進んでいきます。「古伊万里様式」と呼ぶことも。
見込みには五弁花文・松竹梅を輪状に表す文様が現れる。この他に「氷裂文」も。
また、蓋付きの飯碗が現れ次第に一般化していく他、どんぶりなどの高級鉢が登場するなど、富裕層の生活に有田磁器が深く浸透していった時代でもある。
宝暦期 1751-1764】
輸出時代が陰りを見せ肥前磁器は国内向けの市場開拓を行っていく時代に。
この頃に庶民向けの粗放な染付碗、皿が波佐見窯を中心に大量に作られ安価に求めることができるようになったとされる。誰もが日常的に磁器を使い食事をする時代の到来。
有田は高級・波佐見は日常などと産地間で差別化が出来上がる。磁器の多様化。
そば猪口などもこの頃から普及し始める。

天明期 1781-1789】
この頃になると、中国の「粉彩(ふんさい)」と呼ぶ色絵の影響を受け、不透明な厚い青・黄などの色絵の具で文様を描くようになります。またウグイス色の明るい緑も出現。
清朝磁器の影響を受けた「広東形(かんとんがた)」と呼ばれる独特の椀形の出現や、中国の明朝末期の祥瑞のリバイバル、染と白の逆転表現が多く見られる。

化政(文化文政年間) 1804-1830】

端反り形碗など中国磁器の影響を受けるものが多くなる。「素書」と呼ぶ線描きだけで塗りつぶし(ダミ)をしない、あるいは一部だけにとどめるものが増える。
盃洗や盃、口径40センチを超える大皿も増えてくる。
色絵では白や桃色が使われるようになり、赤絵に独特な羊歯状の唐草を表現したものが一般的になる。

【明治以降~近代】

明治以降、次第に陸送に代わっていき有田のモノは有田焼、伊万里市域のものは伊万里焼と細分した産地の名で呼ばれるようになっていく。
時代が進むに連れ染付・絵付けなどの装飾はかなり粗放になっていく。

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参考文献『原色陶器大辞典』、『古伊万里入門(青幻社)』
写真 古道具さわだ所蔵品
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