高取焼の解説です。
高取焼(たかとりやき)は福岡県の陶器です。
文禄・慶長の役(1592-1598)後に日本に伝わった朝鮮系陶窯の一つで、開始以来数回の窯場の移転がありました。
終始福岡藩黒田家の藩窯でありました。また遠州好みの七窯の一つとしても有名です。
~高取焼の沿革~
◎古高取
【永満寺宅間窯】
慶長の役の際、黒田長政に従帰した朝鮮人陶工の八山という者がいました。
慶長5年(1600)黒田氏が豊前中津から筑前福岡に転封の際、八山は命により鷹取山の麓の永満寺宅間(現直方市)に窯を起こします。これが高取焼の始まりと考えられています。
製品は大小の皿、鉢、壺、ぐい呑、片口、徳利、すり鉢、甕など実用雑器が中心で、まれに茶碗や水指などが確認されています。代表的な釉薬では飴釉(褐釉)・藁灰釉(白濁釉)・土灰釉(木灰釉)が中心です。
【内ケ磯窯】~高取焼の重要変革期
慶長19年(1614)に内ケ磯(鷹取山の北側斜面)に窯を移しました。
高取焼研究が進み、この頃に永満寺宅間窯では見られなかった桃山様式が突如登場し、京都・大阪・堺などで発掘調査で確認されておりすでに消費地へのラインが整っていたことも分かってきています。
どうやら当時の人脈や邦人陶工の存在が動かしていたと考えられています。
・邦人陶工五十嵐次右衛門と内ケ磯窯の関係
唐津藩寺澤廣高(尾張出身。正室が美濃焼中心地の妻木郷の領主の娘)の家臣で、瀬戸の製陶法に長け、その他の焼物の製法にも良く通じていた人物。この人物を黒田忠之が召し抱え八山改め八蔵とともに高取の窯で好みを作らせました。
また博多商人との交流も深く、白水幽心(しろうずゆうしん)・神屋宗湛(かみやそうたん)らと交流していました。
このことからまとめてみると、、、。
寺澤氏と妻木氏の関係=桃山様式を代表する唐津焼と美濃焼の両関係。これに寺澤家家臣の五十嵐次右衛門が福岡藩に召し抱えられ、唐津焼・瀬戸陶の桃山様式を高取陶工八蔵らと共に協力し製陶。さらに博多商人白水・神屋両人との交流が消費地を拡大させ京都・大阪・堺などへと流通していった経緯と考えられています。ー参:福岡市美術館業書5『筑前高取焼の研究』-
【山田窯】
八蔵父子は、長政の没後に二代藩主忠之に朝鮮帰国を願いますが逆に藩主の怒りをかい食禄を没収されます。
その時嘉麻群山田村(山田市)に蟄居させられます。この時期に日常雑器を焼いたとされるのが山田窯です。
なお発掘調査なども行われていないようで詳細はこれからとのことです。
◎前期~遠州高取
【白旗山窯】
寛永7年(1630)に八蔵父子は帰参を許され穂波郡合屋川内中村白旗山(飯塚市中)の北麓に窯を築きます。また命によって山城国伏見に至り小堀遠州から茶器の指導を受けました。遠州七窯の名はここに発するものとされています。
製品は器厚は薄く形態も繊細でシャープさを出し軽妙で洗練された華やかな作風が多く見られます。
◎中期の高取焼
【小石原鼓窯】
寛文5年(1665)、藩主が光之の時に窯を上座郡小石原鼓ケ滝の下流鼓村(朝倉郡小石原村)に築きました。
【大鋸谷窯(おがやがま)】
記録などにその存在が記されているが確かな所在地・出土遺物について詳しくは知られていないようで現在の福岡市中央区輝国2町目の18~24番地の境目付近と推測されています。
期間は貞享年中(1684-1687)~元禄17年(1704)と考えられています。
◎後期の高取焼
【東皿山窯】
享保元年(1716)早良郡麁原村上の山(福岡市早良区麁原皿山)に築いた窯で明治4年(1871)の廃藩置県までの150年間と最も長期にわたり活動した窯です。(東山窯という)
その後再興し現在では福岡に亀井家、小石原に高取静山などが著名です。

高取焼水指

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参考文献『原色陶器大辞典』、福岡市美術館業書5『筑前高取焼の研究』
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