伊賀焼の解説です。
伊賀国(現三重県)の陶器です。
古くは伊賀国阿山郡丸柱村(阿山町丸柱)で起こり、後に付近の数カ村に及びました。
土地は近江国(現滋賀県)の信楽谷に接しており地質上から原料はもちろんのこと技術も信楽と同系統で手轆轤(てろくろ)、京窯式に属しています。これゆえに両者の区別は容易かつ至難なものであります。
伊賀焼はもと農業のかたわらに粗雑な農具を焼くことから始まります。そのため職業的技術ではなく数回の断続を重ねます。
天平(729-749)には信楽に陶業があったので伊賀にもあったと考えられています。
作例)神酒に用いる瓶、頑丈な農具雑器類。
その後源平の騒乱(信楽の賊徒出没・伊賀の平家残党巣窟)、建武の中興、天正年間の織田の伊賀征伐(この前後数年は信楽に窯場を移す)と幾度の変遷を経ていきます。
その後、室町末期になると茶道が盛んになり伊賀・信楽の種壺類が花入れや水指に転用されていき陶業は農夫の手から技巧的もしくは職業的に転化していくのでした。
1584(天正12)伊賀の国主に筒井定次が任命されると陶工を監督し古伊賀の神髄を具えた作品を生み出していきます。(筒井伊賀)
次いで藤堂高虎が国主になると、子の高次が寛永年間(1624-1644)に伊賀焼を再興。(藤堂伊賀)初期のモノはほとんどが水指のみで古伊賀を模しながらもそれには及ばなかった。
その前後には小堀遠州が工人を指導し精巧な茶器を作らせていた。(遠州伊賀)
遠州伊賀は古伊賀を離れ独特な見地によって精巧な意匠を施したモノでこちらも古伊賀の神髄からは遠ざかっている。
この室町末期から江戸初期までが伊賀焼が最も繁栄した時期と考えられています。
その後陶業は振るわずわずかに日用雑器をつくるだけと沈滞してゆく時代を迎えます。
【伊賀焼の魅力】
伊賀焼は純日本趣味の独創的なもので、肉太で力があり、雄大さと豪快さの風格を具え無造作にして飾り気がないのが魅力の一つでもあります。
その形が整わない偶然の窯変による予期できない大自然の微妙な変化、絵付けなどの力を借りない赤裸なままの姿は火の芸術とも称されます。
また、小石混じりの土を用いるために生まれる石はぜやその釉薬、白土山系統の土が生み出す赤肌、青萌黄色、青ビードロ釉もご馳走の景色を生み出します。

赤肌、ビードロ釉

石ハゼ


----------------------------------------

参考文献『原色陶器大辞典』
----------------------------------------

三重県で古道具、骨董品、お茶道具の買取りしております。

そのガラクタ捨てるの待ってください!!

眠ったままの古道具・骨董品はございませんか?

きちんと拝見ししっかりと買取ります!!

         ↓↓

 

ホームページ:https://www.sawa-d-guya.com