ここでは、簡単に中国における陶磁器を歴史を追う形で見ていきたいと思います。
【新石器時代】BC6000~BC1500年頃
・彩陶ー馬家窯文化(ばかようぶんか)
黄河流域に誕生した古代中国の文明を象徴ともいわれる焼物です。研磨した土器に筆状の道具で鉄・マンガンなどの顔料を用い文様を描いています。
主に祭祀・副葬品に用いられたのではないかと考えられています。


・紅陶ー仰韶文化(ぎょうしょうぶんか)
中国で初期に焼かれた土器は野焼きのもので赤褐色のものと考えられています。新石器時代の早い段階から焼かれていたのではないかといわれています。
・白陶ー大汶口文化後期(だいぶんこうぶんか)~龍山文化期(りゅうざんぶんか)
白い土器で彩陶や灰陶などに比べ鉄分の少ない陶土が用いられています。
器体は薄く器表は丁寧に研磨され、デザインは斬新・優雅な造形美が後の殷(いん)、周(しゅう)の青銅器に影響を与えたとも考えられています。
・黒陶ー龍山文化
新石器時代後期に黄河中・下流域で興った龍山文化を代表するものといわれています。
漆黒を思わせる色味、卵の殻のように大変に薄造りで軽いものになります。成形に至っては轆轤が使われています。
殷・周の時代には遺品が少ないようですが戦国時代(BC403~BC221頃)になると大変素晴らしい遺品が残されています。青銅器・漆器の精巧な写し物が多く、成形後は研磨され竹や木などで文様も施しています。
その後は前漢(BC202~AD8頃)にも黒陶は作られていました。
・灰陶ー新石器馬家窯文化、二里頭文化(にりとうぶんか)、殷、春秋、戦国
土器の技術が高まるにつれ焼き締まりが強い灰陶が誕生します。硬く強いこれらの器は日常容器とし広い用途・範囲で生産され使われていきました。
【殷(商)】BC1600~BC1050
・灰釉陶器(原始青磁)
殷時代の中期になると灰釉陶器が出現しました。窯の中で燃料である薪の灰が器に自然に降りかかり、胎土の成分が溶けガラス質の膜ができたもの、これを自然釉と呼んでいます。
この現象を意図的に灰釉をかけ高温で長時間やいたものが灰釉陶器になります。人工的に釉がかけられていることから中国ではこれらを「原始青磁」と呼んでいるそうです。
灰釉陶器は殷時代から戦国時代までの約1000年の間に進歩をし未熟なものから成熟度の高い政治の先駆け的なものへと変わっていきました。
【漢(前漢・新・後漢】BC202~220
・鉛釉陶器(緑釉と褐釉)
漢の時代を代表する緑釉陶器・褐釉陶器で軟陶なやきものです。
先の灰釉陶器よりも低い焼成温度で鮮やかに発色させたものになります。
器質が軟らかいために日常品には適さず主に副葬品として制作されました。
・俑(よう)
またこの時代には人間や動物をかたどった明器も作られています。埋葬品でよく知られているものです。
加彩のものから灰陶のものがあります。唐の時代には施釉のものも出現します。
【三国(魏・呉・蜀)~西晋】220~316
・青磁(古越磁)
漢に続き三国時代(220~265)から西晋(265~316)にかけては浙江省の越州窯で青磁が完成されていきました。
隋以前、南朝までの作品を日本においては「古越磁」と呼んでいます。
朽ちた葉の色をていしていますが渋い発色が奥深い趣を感じさせてくれます。
羊・獅子・犬・鶏など動物をモチーフにしたものが多く見受けられます。
【東晋】317~420
・古越磁の多様化
西晋は北方の匈奴により316年に滅びますが、西晋の貴族たちは洛陽から南京へと移住し東晋をおこします。
この頃になると青磁は勿論、黒釉の陶磁も焼成されました。
天鶏壷などは東晋から南朝にかけ少しづつ形を変え流行しました。
南朝は420~589年に中国南部で四つの短命王朝が興亡を繰り返します。それにより窯が拡散し作風が多様化していったと考えられています。
6世紀頃になると中国の北部でも青磁の生産が始まり続く隋(581-618)に受けつがれていきました。
【南北朝)420~589
・鉛釉陶器(北斉の白釉・三彩・緑釉)
白磁の誕生は6世紀後半の北斉の時代といわれていますが、この頃の白磁と呼ばれるものは低火度の鉛釉陶器が多く、このことから厳密には白釉陶器というべきものが多いようです。
より純白に近いものを目指すという白磁の芽生えの時代と考えられています。
またこれらに緑釉や黄釉をたらしこむ三彩も誕生し、これが唐三彩へ発展していったと考えられています。約30年余りの短い期間でここまで発展させたことは注目されている時代です。
【隋(581-618)・唐(618-907)】
・白磁の誕生と発展
この頃には本格的な白磁が誕生していきます。
胎土・釉薬の不純物を除去し白い胎土に透明釉をかけられたものへと変化していきました。
続く唐の時代では白磁は主流であった青磁に代わって大変流行していきました。
・青磁
隋~唐時代前半まで精彩を欠いていた越州窯の青磁ですが、8世紀の中頃以降再び活気を取り戻していきます。晩唐には「秘色」と呼ばれる最高級の青磁も出現してきます。また、日常生活器の量産も進み海外にまで貿易品として輸出されました。
・唐三彩
当時の副葬品。文字通り三色の釉薬をかけたものです。
その色は緑・黄・褐と白です。なかには二色しか用いないものもあれば、藍色を加え四色を用いたものもあります。あくまで三彩とは二種以上の釉薬を施したものの総称のようです。
この三彩は続く遼(遼三彩)・宋(宋三彩)・明時代(法花、素三彩)まで意匠を変えながら受けつがれていきます。
・天目茶碗
【五代(907-960)・遼(907-1125)・宋(960-1279)・金(1115-1234)】
・白磁
唐に続く五代では白磁は晩唐の趣を引き継ぎ釉は滑らかにして使いやすい日常的なものが作られていきます。この頃には国内の需要のみならず海外へも輸出され日本にも入ってきました。
そして時代は宋代に入ると「宋の五代名窯」にあげられる定窯が頭角をあらわしてきます。宋時代の300年間白磁をリードしていったように白磁は最も栄華を極めました。
その作品は象牙のような美しさをていし珍重されました。定窯いがいの小品にも優品は多くみられます。
また、北宋時代には江西省の景徳鎮で青白磁も焼成されました。青味を帯びた清涼感あふれる白磁をさしています。古来中国の人々は「影青(いんちん)」と呼び愛玩してきました。
この青白磁も宋時代を代表する白磁の一つです。


・遼の陶磁
遼は遊牧民族契丹人の国で中国東北部を200年余り支配した征服王朝です。
中国の優れた文化を摂取し、やきものにおいても中国人陶工を拉致し領内に窯を築きました。
鮮やかな色彩かつ大胆な造形美は遊牧民であることから、草原や風を思い起こさせるようなものがあり独特な特徴をもちます。
・青磁
五代・北宋にかけての越州窯では青緑の透明感のある釉薬と多様な文様が施されたものが焼かれていきましたが、宋時代に他の窯に多大な影響を与えた後役割を終えていきました。
ー影響を受けた窯ー
耀州窯)
唐代には都にも近く唐三彩も生産していましたが、五代に入り越州窯の影響を受け青磁の生産技術が発展していきました。北宋時代にはオリーブグリーンの深い釉調に彫りによる刻花文様や型押しの印花文が施された精緻なものが出現していきました。
汝官窯)
北宋宮廷の御用窯。特徴は器形が端正で品格が良く、青磁色は淡く水色をていした美しい色をしています。
南宋官窯)
宋王朝の南遷に伴い開かれた窯。郊壇下官窯(こうだんかかんよう)と州内司官窯(しゅうないじかんよう)がある。
一番の特徴は貫入(釉層のひび割れ)が一面に生じています。胎土は鉄分を多く含むため黒ずみ、釉調は厚くかけられており、胎土が黒いため釉色は独特の落ち着いた印象があります。
龍泉窯)
日本人をも魅了してきたのが龍泉窯の青磁(砧青磁とも)で、淡く澄んだ青緑色で柔らかい光沢をもち、胎土はほのかに灰色がかった白味をおびています。
南宋から次の元時代初期まで盛んに焼かれました。
鈞窯(きんよう))
北宋から金時代に独特の華やかさを持つ澱青釉(月白釉)で焼かれているものも青磁の一つと数えられています。中には上から辰砂釉を施した紫紅斑の出たものがあり澱青釉との融合が美しいと評価されています。
・磁州窯
灰色の胎土に白泥を厚く塗り、透明釉などをかけ焼成します。
見どころは白化粧が器肌をただ白くするだけでなく他色との対比を効果的に生み出しているところです。
掻落し、鉄絵など多彩な装飾方法があり、器形・用途も多岐にわたります。
・天目茶碗
宋時代に最高潮をむかえる。
【元(1279-1368)】
・青花の誕生
青花は、素地にコバルト顔料を用い筆などで文様を描き透明釉をかけ焼成した陶磁器をさします。日本でいうところの染付にあたります。
元時代に江西省景徳鎮で誕生します。
この時代の青花は草創期ともあり、勢いのある筆致で力強さがあります。
・白磁
この時代の白磁生産は景徳鎮が独占という形になります。宋時代の青白磁からより白さを増した白磁となりました。
・青磁(龍泉窯)
支配階層のモンゴル人好みにかなった大型の花瓶や酒壺、大皿が主流になっていきました。
【明(1368-1644)】
・青花
明時代初期の永楽年間(1403-1424)に御器廠(ぎょきしょう)が設置、作風・技術ともに洗練されていきました。
またイスラム圏との交易が盛んになり青花磁器は重要な輸出品の一つとなりました。
以後、宣徳年間はより精緻で洗練されていきます。
橘皮文と呼ばれる柑橘類の皮に見られるような凹凸があり、光沢は抑えられ落ち着いた釉調が特徴。
・白磁
御器廠が、玉のようなつややかな優美格調が高いものを生み出し、無文のものが多く文様が施されているものも控えが特徴です。究極の白磁を目指したと考えられています。
この後、青花、五彩の素地として用いられる傾向になり主役の座を退いていきます。
・青磁(龍泉窯)
元時代から明時代初期にかけて日本で「天龍寺青磁」(貿易船の名に由来ス)と呼ばれるものがある。
・五彩 ー 色彩豊か「赤絵」「色絵」-
白磁の上に赤・緑・黄などの上絵具で文様を描き再度低温で焼きつけをしたものをさします。
色絵・赤絵などといいます。
技法は金から元時代にかけて磁州窯で作られた「宋赤絵」がはじまり。
明から続く清時代の主役となっていきます。嘉靖・萬歴に爛熟期をむかえる。
・五彩の民窯
萬歴以前に焼かれたものを日本で「古赤絵」と呼んでいます。青花を使わず赤を主体に文様を描いています。
金襴手は嘉靖頃で金彩のある五彩をさします。主に輸出品として焼かれ本国にはあまり残っていないようです。
・明末ー古染付・色絵祥瑞・南京赤絵・呉州赤絵
古染付)
明朝末期をむかえると官窯が衰退し民窯が大いに盛んになり自由かつのびのびとした作風が出現していきます。
器の作りは粗雑なものが多く、釉と素地の収縮率の違いからホツレが生じ一部が剥落することがあります。これを「虫喰い」と日本人、中でも茶人は古来から呼び好みました。
江戸初期から日本人に好まれ景徳鎮に注文依頼したほどで茶器などは珍重されました。
もちろん中国国内においても日常器として皿・鉢などが焼かれました。


色絵祥瑞)
青花の一群さし「吾良大甫吾祥瑞造(ごりょうたゆうごしょんずい)」の銘をもつものから通称として祥瑞と呼ばれています。年代的には古染付よりやや下り清初になるものあると考えられています。
これに色絵を施したものを「色絵祥瑞」と呼びます。
南京赤絵)
明末から清初の天啓赤絵・色絵祥瑞・呉須赤絵と区別している五彩磁器で景徳鎮民窯のものを「南京赤絵」と呼んでいます。
白地に色絵だけで絵つけしたものが多く、人物・山水・花鳥などが描かれています。
呉州)
福建省南部で焼かれた高台に粗い砂がついた五彩・青花の磁器が、桃山時代から江戸初期にかけて日本に大量に輸入されました。
それらを呉州赤絵・呉州染付と呼んできました。高級食器・茶道具としてもてはやされました。
のびのびとした自由な筆遣いが特徴です。
褐釉白花、藍釉白花という一群もあります。
【清(1644-1912)】
・清の官窯
明時代の終焉を経て清時代降康煕帝の時代に、閉じられていた官窯が復活し伝統の製陶技術をさらに極めさせました。
康煕、雍正、乾隆の三皇帝時代には釉上彩は洗練され、西洋の七宝技術を取り入れた粉彩によってそれまでの文様というよりは絵画のような精緻を極めた絵付けになりました。
清時代前期の景徳鎮窯は五彩、粉彩、単色ものなどあらゆる技術を極め大変発展していきました。
しかし、乾隆帝の没後は衰退し再び栄華を取り戻すことはありませんでした。
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※参考文献『原色陶器大辞典』『中国・朝鮮古陶磁の見かた、選びかた』


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