瀬戸焼の解説です。
瀬戸焼(せとやき)は愛知県瀬戸市を中心に産する陶磁器の総称をさします。
瀬戸焼はご存知の通り日本国製陶業の一大集中地であり、歴史は長く窯業の盛んなことは全国でずば抜けており、「瀬戸物」というと直ぐに陶磁器を意味し広く世間に知れ渡っています。
この瀬戸は原料に重文恵まれた自然的好地にあり、技法にも極めて古い伝統を持ち、比較的当時の政治勢力の所在地にも近く、このことが当時需要のあった茶用陶器の製作し、他方には日常品を大量に作り全国陶業地の中心勢力をたらしめることに至りました。
発祥は弘仁年中(810-824)と考えられ、平安末期には朝廷の衰微と共に衰えたとされ、鎌倉期に至って民窯として再出発したとされ仏具類、皿、香炉、水滴などその他を製作しています。
室町時代初期、南北朝時代に至っては瀬戸の一大変転と考えられ宗教用具なものから日常雑器へと進展していきました。天目碗、天目釉の小皿、香炉、祖母懐壺などが出現してきます。また灰釉質のものは開いた大ぶりの碗や、小皿、仏花器、燭台なども鎌倉時代~室町時代に渡り製作されたと
考えられています。
安土桃山時代になると茶事の文化が盛んになり、室町時代のそれまでは唐物と呼ばれる輸入品を使用していましたが、信長公の時代にようやく茶事の世界において国産陶器への移行が見られその価値が認められていきます。
この時期が日本国陶磁器発達において技術・意匠の発達と変化の史上最も重要な一時期と考えられています。
この頃より製品は独創的・芸術的となっていきます。従来の灰釉と天目釉しかなかったものが、瀬戸黒や織部焼・志野焼・黄瀬戸など新種を加えていきました。装飾では印花文・画花など単純な法から鉄砂を用い器物に文様を施すことに成功していきました。
このように茶事の流行と政治勢力の圏内の影響で繁栄しました。
しかし、江戸時代の初期に入り退歩を見ます。茶事用の器の製作が安土桃山後期より次第に京都に移行し、瀬戸は日常雑器が主となっていったためです。
これ以降、家康の子義直が尾張に封ぜらると瀬戸陶祖の末裔が各地に分散させることは不得策と考え、唐三郎、仁兵衛、太兵衛ら御窯屋三家が御用窯を勤めることになりました。
御庭焼である御深井焼も現れる。
江戸中期は一時不振にあえぐが、以降、加藤民吉が様々な協力者のもと南京染付技術・肥前での磁器製法の研究などを取得し伝えた。陶業から磁業へ転じるものも出現。
これが瀬戸窯業の第二の革命とされ近代産業へと発足を遂げた時期になりました。
安政年間(1854-1860)には三井物産会社の紹介などで海外貿易の最初となる事業も始まります。以降海外貿易が開かれるようになり販路は拡大し明治に入るとオーストリア博覧会、パリ万国博覧会などを経て「瀬戸物」の評価が高まっていきました。
以後、近代に入っても陶磁業は盛んに行われて現在に至ります。

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参考文献『原色陶器大辞典』
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