勝山焼の解説です。
勝山焼(かつやまやき)は、「日本やきもの集成」によると古来不明の窯とされており、どの陶書にも安政2年(1855)田内梅軒が記した「陶書考 附録」に出ている文献を引用したものがほとんどだそうです。
「陶器考」には茶入れの図があり、器裏に「元禄八年暘城製」との彫銘があるとしています。
「原色陶器大辞典」では「美作国勝山城主三浦氏の御庭焼とし、元禄(1688-1704)頃陶工を招き城中にて茶器を焼かせまた自らも作製したという。勝山城の別名から暘焼(ひのでやき)ともいう。」と記されています。
勝山城の御庭焼だとしても御庭焼というものは窯跡がほとんど残っていないため探求は難しいといわれています。ー「日本やきもの集成」-
では勝山城と城主から考えている説を引用して考えてみましょう。
●勝山城
期限は鎌倉時代三浦高継築城の高田城が起源と考えらており、室町・桃山期に三浦氏は宇山氏・尼子氏と幾度の奪還戦を繰り広げたそうです。
奪還は成功するも毛利氏と宇喜多氏の勢力に挟まれ都度攻められたそうです。
故に宇喜多氏の説得に応じ毛利氏との和議を結び城を明け渡します。
その後天正年間には美作三浦氏の血統が絶えます。
以後、楢崎氏ー牧氏と城代が変わり関ケ原の役後は小早川氏ー森氏(津山藩主)-津山藩に統合ー各務・大塚両氏が城番ー元禄10年(1697)森氏が改易、よって勝山は天領になり一時廃城。
明和元年(1764)勝山藩が成立し美作三浦氏の遠縁である三浦明次が藩主となり、明治維新まで三浦氏の居城となる。ーwikipedia参照ー
●まとめ
元禄年間の城代や廃城の史実と三浦氏が再び城主となったのは明和元年(1764)から考えると
元禄年間の御庭焼きでは時期がずれており、三浦氏の御庭焼として作られたのは明和元年以降のことであろうと考えられています。ー「日本やきもの集成」ー

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参考文献『原色陶器大辞典』、『日本焼物集成(山陽徧)』
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