明石焼の解説です。
明石焼といっても食べる方ではありません。
明石焼は播磨国(現兵庫県)明石の陶器です。また、明石近辺で焼かれた陶器の総称でもあります。
1615-1624(元和年間)に戸田織部之助(号:柳枝、1634(寛永12)年没)が赤浦で作陶しました。大和生駒山(現奈良県の生駒山)の湛海阿闍梨から「明石」の号を贈られた。そのものを古明石焼とされる。
同年間、明石城主小笠原忠政の御用窯が築かれる。忠政が後に豊前国小倉(現福岡県北九州市小倉区)へ転封(1625(寛永2)年、転封後は上野焼細川時代に続き小笠原時代を迎える重要事項)になるまで織部之助はこの御用窯で作陶したとされる。その後は明石中谷山に窯を移した。これが明石焼の由来ともされているそうです。
作品には行書で「明石」の大印のものが古作とされ、備前焼の火襷(ひだすき)や三島などを写した茶陶が伝来している。
また、古清水風の色絵も特色で、これは前期より少し遅れて誕生したそうで「明石」の印には様々な種類がみられる。
明治年間には交趾(コーチ)風のものが焼かれ海外にまで輸出されるようになった。しかし、大正年間になると衰退していきその後は雑器類がつくられるようになり近年まで続いた模様。
【その他明石焼と称されるもの】
朝霧焼(あさぎりやき):元和・寛永年間(1615-1644)に作陶し始めたとさる。「朝霧」印
魚住焼(うおずみやき):現明石市魚住町中尾。明治初年に西海音助が起こしたとされる。
須磨焼(すまやき):現神戸市須磨区。創業・年歴などは明らかではない。「スマ」「須磨」印
ほのぼの焼:明石焼の別称。
舞子焼(まいこやき):現神戸市垂水区西舞子町。寛政年間(1789-1801)衣笠宗兵衛が陶祖。
作ぶりは京焼風。一時廃窯。
天保年間に高田槌之助が再興。また別に1810年(文化7)に三国久八が
窯を築き作陶。
「まひこ」「まいこ」印

【明石焼の印】

  
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参考文献『原色日本陶器大辞典』、『日本陶器全集(大正期)』
写真参考『日本陶器全集(大正期)』
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